鶏頭の
十四五本
ありぬべし
鶏頭の花が
十四、五本ほど
きっとあることでしょう。

この歌は、夏の終わりから秋へと移ろう季節に、庭の片隅や畑にひっそりと咲く鶏頭の花々を静かに見つめる作者の姿を思い起こさせます。燃えるような赤や鮮やかな黄色をまとう鶏頭は、秋の訪れを告げる花でございます。その花が、およそ「十四五本」という、漠然としながらも確かな本数でそこに「ある」と詠むことで、作者の目がその光景をどれほど丁寧に、そして心静かに捉えているかが伝わってまいります。派手な言葉は一切使われておりませんが、「ありぬべし」という結びには、「きっとそこにあるだろう」という確かな存在への肯定感とともに、その風景を心深く受け入れているような、しみじみとした情感が込められているように感じられます。移ろいゆく季節の中で、確かな命の営みを静かに見つめる作者の温かい眼差しが、この短い歌の中に深く息づいているのでございます。

木下利玄は、明治末期から大正時代にかけて活躍した白樺派の歌人でございます。華族の家柄に生まれながらも、病弱な体質に悩まされ、人生の多くを孤独や病と向き合いながら生きた人でした。彼の作品には、自然や日常の風景を、内省的で繊細な感性を通して捉える姿勢が色濃く表れております。この「鶏頭」の歌もまた、華やかな色彩を持つ花でありながら、どこかもの静かで、過ぎゆく季節の寂寥感と響き合います。「十四五本ありぬべし」という表現は、単なる客観的な描写を超えて、作者がその景色の「存在」を心の中で静かに確認し、受け入れている様子を伝えているのではないでしょうか。それは、人生の無常や、移ろいゆくものへの静かな諦念、あるいは病と向き合いながらも、目の前の小さな生命の営みに確かな「生」を見出そうとする、利玄の魂の姿を映し出しているように思われるのです。多くを語らずとも、読む人の心に静かに、そして深く染み入るような、奥ゆかしい調べを奏でる一首でございます。