五月雨の空もひとつの山里に
草葉の露を分くる袖かな
五月雨が降り続く空も、
ただ一つにつながって見える山里で、
草葉に宿る露をかき分けて進む私の袖よ。

この歌は、五月雨がしとしとと降り続く情景を、静かに、そして深く心に染み入るように描いておりますね。
山里の空と地上が、雨によってあたかも一つの広大な空間へと溶け込んでいるかのような一体感が感じられます。
その中で、作者は草葉に宿る無数の露を、自らの袖でそっと分けながら歩んでいらっしゃる。この「袖かな」という詠嘆は、その小さな行為の中に、はかりしれないほどの寂寥や、あるいは諦念のようなものが込められているように思えてなりません。
雨に濡れ、露に濡れる袖は、外界の湿り気と、作者の内なる情感が一体となった姿を表しているのではないでしょうか。
ひっそりとした山里の奥深さに、静かに身を置く作者の、孤独でありながらも自然と一体化しようとする魂の姿が、しみじみと伝わってまいります。

崇徳院は、保元の乱に敗れて讃岐へ配流されるという、まことに悲劇的な運命を辿られた方でございます。
この歌は、その流謫の身となる以前の作とされておりますが、彼の生涯に影を落とす孤独や、世の無常を見つめる視点が既に感じられるかのようです。
五月雨の降り続く山里という情景は、都の喧騒から離れた静寂、あるいは閉じ込められたような閉塞感を象徴しているのかもしれません。空と山里が「ひとつの」と表現されることで、外界との隔絶と、内面の深く沈み込んだ世界が強調されているように思われます。
草葉の露を分けるという行為は、取るに足らないような、しかし作者にとっては切実な、日々の営み、あるいは心の奥底で静かに続く思索の象徴ではないでしょうか。
この歌には、単なる自然描写を超えて、来るべき悲劇を予感させるかのような、崇徳院の繊細で傷つきやすい魂の呟きが、静かに響いているのでございます。