内部生命の充溢せざるものは、真の詩人にあらず。
外部の事象を模写するは、画工の業なり。
詩人は、自己の内部に湧き出づる生命の奔流を、言葉の衣に着せて世に問ふものなり。
真に内なる生命が満ち足りていないならば、それは本当の詩人ではありません。
外部の出来事をそのまま写しとることは、画家がおこなう仕事のようなものです。
詩人という者は、自分自身の内側から湧き上がってくる生命の力強い流れを、言葉という衣をまとわせて、世に示すべきなのでございます。

透谷さんがおっしゃる「内部生命」とは、単なる感情の吐露にとどまらず、もっと深く、自己の存在そのものからほとばしり出る、真実の営みとでも申しましょうか。外側の世界をなぞるだけの表現は、確かにそれはそれで価値がございますが、詩という芸術が目指すべきは、もっと内奥からの、偽りのない魂の叫びを、言葉という形に結晶させることなのでございますね。それは、あたかも内なる泉から湧き出る清らかな水を、器に注ぎ出すような、純粋で力強い創造の営みでございます。

北村透谷が生きた明治時代は、西洋文化が怒涛のように押し寄せ、古い価値観と新しい価値観が激しくぶつかり合う、まさに激動の時代でございました。そんな中で、透谷さんは、表面的な模倣に陥るのではなく、自らの内面と深く向き合い、そこから生まれる真実の表現を追求することの重要性を説いたのです。それは、時代に翻弄されながらも、確固たる自己を見失わずに生きようとする、透谷さん自身の孤独な戦いであり、その魂の叫びが、この『内部生命論』に込められていると拝察いたします。真の詩とは、時代や流行に左右されることなく、常に自己の内なる声に耳を澄ませ、それを誠実に表現することにある、という深いメッセージが、今もなお私たちの心に静かに響くのでございます。