昔、男、東の方へ行きけるに、駿河の国に、宇津の山といふ所に至りぬ。その山、いと暗く、細き道なり。その山に、修行者あひたり。男、この歌を詠みけり。駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
昔、ある男が東国へ旅をしていたところ、駿河国にある宇津の山という場所に着きました。
その山は、たいそう暗く、道も細いのでした。
その山で、修行者に出会いました。
男は、この歌を詠みました。
駿河の国の宇津の山のほとりでは、現実でも夢の中でも、あの人に会えないのでした。

在原業平が詠んだこの歌は、旅の途中で出会った宇津の山という、暗く細い道に迷い込んだかのような、深い孤独と切なさを表現しております。修行者という、俗世から離れた存在に出会ったことで、男の心は一層、現実と夢の間をさまようような、会いたい人に会えないやるせなさに包まれたのでしょう。「うつつにも夢にも」という言葉は、現実世界はもちろんのこと、夢の中でさえもその人との再会を叶えられない、という叶わぬ思いの深さを、しみじみと伝えております。まるで、暗く細い山道で立ち往生してしまったかのような、身動きの取れない恋心の叫びが、静かに響いてくるようです。

この歌が詠まれた『伊勢物語』の時代は、平安時代初期にあたります。貴族社会において、恋愛は非常に重要なテーマであり、歌は男女の心情を伝えるための、かけがえのない手段でした。在原業平は、その中でも特に情熱的で、自由奔放な人物として描かれております。この第10段の歌は、旅という非日常の中で、ふと立ち寄った険しい山道で、愛しい人への募る思いを詠んだものでしょう。現実と夢の区別がつかないほどの恋慕の情は、当時の人々にとっても、あるいは現代を生きる私たちにとっても、共感できる普遍的な感情であると言えます。言葉にならないほどの深い愛と、それが叶わないことへの静かな嘆きが、この歌の核心に触れているのです。